芊芊とともに宜蘭設治紀念館の前に戻った私は、再び彼女の運転する機車に乗り、どこへ行くのかわからないまま出発しました。芊芊は本当に女の子としては運動神経の良い子で機車の開車もスムーズ、どんどんとばしていきます。ちょっと小雨まじりの天候でしたが、そんなことはおかまいなしで、少しばかり走り慣れない土地で道を迷ってはいるものの快適に走っていました。

芊芊はどんどん街中の宜蘭站から反対方向に進んでいきます。ものの10分も走ると宜蘭河にかかる西門橋のたもとの所までやってきました。こんな所に一体何があるのだろう?何もない場所のように思いました。芊芊は下の欄干のちょっとしたスペースに機車を駐め、私に降りるように促しました。

西門橋

芊芊は私の手を引いて一緒に堤防の上に上がるように言いました。堤防の上は遊歩道のようになっていて、目の前には宜蘭河が豊かな水を湛えてゆったりと流れています。遊歩道を少し歩くと、大きな石碑が見えました。

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「這是西郷廳憲德政碑。後世稱為日本維新三傑之首的西郷隆盛、庶子西郷菊次郎出生。西郷隆盛死於鹿児島的城山、菊次郎進入明治政府內工作。日清戦争後台湾被日本統治、菊次郎被調往台灣就任台北県支庁長、沒多久再轉任為宜蘭庁長。日清戦争攻佔時造成許多台灣人傷亡、不管是漢族或山地族隨後都有零星的抵抗。而西郷菊次郎就任宜蘭庁長後採用懷柔政策管理、並且對地方做了許多建設。除了蓋了許多學校之外,更重要的是在宜蘭到員山這段築了全長近兩公里的堤防、這對當時一直氾濫的河川有很大的防治效果、當然也適度地保障了宜蘭人民的生命和財產。後年菊次郎回國擔任京都市長、宜蘭當地人為了感念他。除了稱所建的堤防為西郷堤之外、也做了一個紀念碑以表彰他所做的德政」

(これは西郷廳憲の徳政碑だよ。日本の明治維新の3大英傑のひとり西郷隆盛は西郷菊次郎という息子を産んでいるんだ。西郷隆盛は鹿児島の城山で亡くなったけど、息子の菊次郎は明治政府に入って政府の仕事をこなしていたんだ。日清戦争後に台湾は日本に統治されて、菊次郎は台湾県支庁長として着任し、すぐに宜蘭庁長としてとして再び戻って来たんだよ。日清戦争後の台湾占領では多くの台湾人が傷ついたけど、漢人はあまりかかわっていなくて、山地に住んでいた原住民が抵抗したんだ(以前のブログで紹介した霧社事件など)。そのこともあって西郷菊次郎は宜蘭庁長に就任してからは懐柔策をとったの。彼はこの地方に多くの建設工事を行ない、学校を作ったこと以外に、更に重要なのは宜蘭で全長2kmにも渡る堤防を築いたのよ。これは氾濫を繰り返していた宜蘭河の治水に大きな効果があって、その結果、宜蘭の人たちの命と財産を保証し守ったんだ。その後、菊次郎は日本の京都市長になったんだけど、宜蘭の人たちは彼にすごく感謝して懐かしんだんだ。だからこの堤防のことを人々は「西郷堤」と呼んで、それ以外にもこの場所に彼の徳政に対して顕彰を与えるためにこの記念碑を作ったのよ)

芊芊はとてもやんちゃなところがある現代的な子なのですが、かつての日本と台湾との歴史を話すとき、心がこもったゆっくりとした口調でいつも私に語りかけます。この時も私の方を見るわけでもなく、じっと何の変哲もない古い石碑を見ながら、ひとつひとつの言葉を選んでいました。

私は台湾にかかわった日本人のひとりとして、彼女の気持ちが本当に嬉しかったです。かつて台湾を統治した日本人には後世に名を残し、台湾人に感謝される日本人が多くいます。「烏山頭水庫」は八田與一が造り上げたダムとして、李登輝元中華民國総統にも日本人がかつて最も台湾に貢献した事業と讃えられています。この宜蘭において熱心に人々のことを考え、教育やインフラ整備に力を注いだ西郷菊次郎もその一人です。2006年に高雄市長になった陳菊氏は宜蘭の農家の出身ですが、彼女の名前が菊次郎の菊にちなんでつけられていることもよく知られています。

<西郷菊次郎と台湾~佐野幸夫著作>

西郷菊次郎氏は、殖民統治者の日本人でありながら台湾における政治は、全く殖民を出発点としていない。その六年間の在職中に、宜蘭の近代化建設の基礎を確立した。当時の本地の士紳は、その政治を懐旧し、記念碑を建てた。これが現存の「西郷庁憲徳政碑」である。

陽明学の影響を深く受けた西郷隆盛は、「敬天愛人」という独自の哲学を樹立した。子息西郷菊次郎氏は、その哲学を台湾において実行し人々の信頼を得た。植民地行政官というややもすれば権力主義陥りやすい職責にあって、原住民と目線を同じくして行動を共にした人間愛に徹し善政を敷いた西郷菊次郎氏は、正しく西郷哲学の使徒と云える。

台日の一時期を語るモニュメントとして、この「西郷庁憲徳政碑」は、両国の共同の資産と言ってもよいでしょう。台日の友好関係は、一朝一夕になったものではない。西郷菊次郎氏の如き隠れた人士こそ真の功労者と言えよう。

佐野幸夫氏がこの労作を世に出さなければ、広く人口に檜炙することは能わず、歴史に埋もれるところであった。台日親善友好のためにも西郷菊次郎氏の事績は、多くの人々に知られるべきである。機会があれば更に資料を掘り起こし台日友好の絆とすべきである。
 
今般、佐野幸夫氏の労作が洛陽の紙価を高める意義は大きい。長年に亙る御苦労に対し心から敬服の念を表し今回の上梓を喜ぶ次第である。

2002年4月1日  中華民国台北駐日経済文化代表處  代表 羅 福 全

上記は、「西郷菊次郎と台湾」 より序文を紹介

<松葉杖の長官田野をかけまわる>
 
西郷庁長は、堤防工事時、昼夜田野を奔走し、監督督励なされた。一庁の長がこのように身を以って現場に運ぶだけでも称賛に値するのに、もし彼が歩行も困難な身体障害者であったと知っていたら住民の感銘は如何ばかりであったか。 実は、西郷庁長は、西南戦争で父に従い負傷して右足を膝下から切断していたのである。このことを知る住民は、当時殆どいなかった。

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西郷菊次郎は、西郷隆盛が沖縄に流されたおり、愛加那(あいかな)との間にもうけた子供である。米国留学の後、台湾が日本に割譲された明治28(1895)年から、約7年間、地方行政に携わった。
  
そのうち5年6ヶ月を、台湾の東北部、宜蘭の庁長として務めた。宜蘭は台湾第二の平原である蘭陽平原にあり、そこを流れる宜蘭河は、毎年氾濫を起こし、民衆を苦しめていた。
  
西郷はこの治水工事に巨費を投じ、約1年半、延べ約74万人の人員を投入して、取り組んだ。この治水工事が成功して水害は根絶され、宜蘭の民衆有志は、その恩恵に感激して石碑を立てた。この「西郷庁憲徳政碑」は、3m以上もの巨大なもので、漢文で西郷菊次郎の徳政を高く称えている。
 
 「西郷堤」と今も宜蘭の方々が呼ぶ、全長2kmあまりの宜蘭河の大堤防。この大工事は多くの宜蘭の人たちの命を守り、豊かな生活を生み出していく基礎になりました。
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芊芊が言っていた「答え」がわかりました。

宜蘭にはかつてこの台湾社会の発展に貢献し、インフラや教育の整備に心を砕いた日本人たちがいました。それは私たちの母国・日本が台湾に対して統治してきた約50年の間の歴史の中にありました。当然、日本統治時代に対しての多くの批判もあるのでしょうが、それを乗り越える徳政もきっと多くあったのでしょう。異国に日本人に感謝する碑が建つということは普通、ありえないことです。しかし、きっと西郷菊次郎は台湾人、日本人という枠を越えて一人の治世者として、この宜蘭の大地に惠みをもたらすために努力を惜しまなかったのかもしれません。

「芊芊、我感激對你。我明白回答」  (チェンチェン、ありがとう。僕は答えがわかったよ)

彼女は私のその声を聞くと、ちょっとうれしそうな、そして無邪気ないつもながらの表情を見せて言いました。

「因為造成豐富這個台灣、所以我作為台灣人對日本人也表示感謝喲。真的謝謝」
(この台湾を豊かにしてくれて、私だって台湾人として日本人には感謝してるよ。本当にありがとう)

小雨が降る誰もいない宜蘭の西郷堤。
彼女はそう言うとちょっと照れながら、日本人のようにペコリと私に向かっておじぎをしました。

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