台湾の病院の仕組みは極めて日本の病院に似ています。これは日本の統治時代に台湾が日本のシステムで多くの社会的な仕組みができた名残りですが、台湾人たちは日本の統治が終わった後もこのシステムを継続してきたような傾向があります。統治時代の後に国民党が台湾の政治を行ったのですが、当時の国民党政権時代の施策が日本統治時代よりも後退したという意見もあって、日本統治時代のことをよく言う年配の方も多いように感じました。保険の仕組みや年金や退職金といった労働・雇用関係、学校などの教育関係、郵便局や電話局、銀行なども日本と同じようなシステムをとっています。多分、台湾に住んでも日本人があまり違和感がないのはこのような歴史的、社会的な要因もあるように私は思っています。

当初、私も台湾に駐在し始めた頃は、日本語が通じる医者が多いこともあって日本人の駐在員がよく使う病院や医者にかかっていました。ところが全民保健が使えない(日本の国民健康保険のようなもの)病院が多くて、そのため安心感はあるのですが、診療費が高く、半年後には一年に一回の人間ドック以外はまったく行かなくなってしまいました。また、台湾の医院は夜の10時頃までやっていることが多く、それも仕事帰りにちょっと行けるので便利でしたし、皆、親日的で一生懸命、日本語や英語も使ってくれることが多く、まったく不便を感じませんでした。全民保健の掛け金はひと月800元ぐらいでしたが、これを使うととにかく診療費が安くてありがたかったです。

大きな病院は掛號といって予約をするのですが、これも担当の医師の診察時間の一覧表があり、これを見ながら電話やインターネットで掛號でき、とても便利でした。新型インフルエンザが流行った時も対応は比較的早くて予防注射も安く、夜でもOKでしたから、今は台湾の安さと便利さを思い出すと日本で医院に行けないですね(笑)。

さて、夜の7時過ぎに私は亞東紀念病院の前に到着しました。MRTの駅からもすぐで、ちょっと寂しい感じの通り沿いにあるのですが、大きな病院ですぐにわかりました。加菲はその入口で待っていました。ほとんど化粧しておらず、服装もジーンズにジャンパーといったラフな格好で、いつも包廂で見る加菲とはまったく印象がちがいました。いつもか弱い感じがするのですが、普段着になるとさらに線が細い、どこにでもいるような学生の子といった雰囲気でした。

彼女とまず病院のロビーに入り、もう夜であまり人がいない病院はやや殺風景な感じでした。加菲はそこで、自分の學生證と身分證を私に見せました。台湾人の身分證は裏面に父親と母親の名前が入っており、また、出生地と住所も入っています。そこには彼女の母親の名前が記載されており、私に確認をするように促しました。彼女は學生證と身分證のコピーも用意していて、私にそのコピーを渡し、それとあわせて普通の紙に彼女が手書きで書いた租債書を見せました。

私はビジネスで台湾の公司と契約を結ぶ際に多くの契約書に捺印し、秘書にいつも書類関係をチェックさせていたのですが、多くの条項が並ぶそれらの書類とは違って、高校生が手書きで一生懸命、そのような雛形を見て書いたような稚拙な租債書でした。ところどころには誤りがグチャグチャとペンで消されていました。加菲は國中(中学校のこと)を卒業した後、経済的な理由と勉強が苦手だったこともあって普通に高中には進めませんでした。 そのため、台湾では繁字体というかなり難しい漢字を文書で用いるのですが、漢字も苦手で、字もうまくありませんでした。今もその租債書のコピーを私は持っています。

甲方には加菲の名前があり、乙方には私の酒店で使っている通称名が書かれていました。次に借助金額の覧があって空白になっていました。その後に、彼女が自分で考えたのであろう次のような約束の文章が書かれていました。

甲方願意毎月15號歸還(      )元台幣現給乙方。若無確實完成、乙方可憑比據、做、為証明。得以尋求法律途侄。我守護秘密、決不告訴任何人。我看醫院的収據 。

そして一番下には今日の日付と加菲の本名が書かれており、その横に印が押してありました。

私は実は加菲にはこのような借用書は特に必要ないと言っていました。しかし、彼女が自分の私下(プライベートのこと)をすべて明らかにし、このような借用書を用意するのは、よほどのことだろうと思いました。私が酒店の子の本名や住所、その素性まですべて知ったのは加菲が初めてでした。

私は加菲にママの状況を聞きました。どうやら階段を踏み外して、転落し、その時に足の骨を骨折したとのこと。足首のあたりの骨折だったので開刃(手術のこと)を昨日して、ギプスをはめている状態で、3日間ほど入院が必要と言われており、今は病室で無職のお姉さんが世話をしているとの話でした。加菲だけが外で夕食を食べて来ると言って1階のホールに来ていました。

私は彼女の約束と決心を感じ、お姉さんが下に降りて来ることはまずないと思ったものの、加菲は家族に酒店に勤めていることは秘密にしているため、すぐに手続きをすることを決心しました。まずは彼女と控台に行き、救急用患者の支払いができる会計の窓口に加菲と一緒に向かいました。彼女が自分の母親の名前を告げると病院のスタッフはとても親切に対応してくれて、私も必死の中国語で彼女の親縁者と名乗り、今日までかかった手術代金と医療費、そして退院までの入院費用の支払いをしました。

実はそこでも驚くことがあって、加菲の家は本当に貧しくて家族全員が全民保健の支払いを延滞していて、全民保健が使えない状態であることが判明したのです。そのため、医療費も高くて、25700元でした。しかし、加菲は当然、払うあてなどないのでしょう。私はそこですぐに現金で支払いをすべてしました。

加菲は弱々しく、横で私のそでをつかんで、泣きながら何も言わず、立っていました。

加菲が必死で書いたのであろう租債書に彼女は醫院の収據 (領収書のこと)を見て、金額を書こうとしました。私はそれを見て、私が自分で25000元と記入しました。戻ってくるかどうかもわかりません。仮に戻って来なくても法律的な手続きを彼女の書いた約束通りするつもりはありませんでした。ただ、彼女が誠実な人間であるかどうかそれを確認したかったことと、そして、少なくとも私にはやや経済的な余裕があるわけで、支払いのあてもない加菲を放置はできませんでした。

果たして彼女は毎月いくら私に返すつもりなのだろう?

自分の通っている高中進修學校の後期の學費もまだ払えておらず、制服店の仕事を続けるにしても週に2~3天のPTですから扣錢などを引かれるとがんばっても手取り3~4万元といったところです。加菲はまったくと言っていいほど酒が飲めず、よく客に無理矢理つきあわされて上班の途中でダウンして休憩室で泣きながら休養していることも多く、そのような時間はすべて扣錢(罰金)になります。さらに彼女は処女でしたから、ボディサービスも拒否することが多く、他のベテラン小姐のようにFやSなどのボディサービスで小費(チップ)を稼ぐことなど到底無理でした。従って、かなり、実際の収入は少ない状況でした。

月に返す額は、私は加菲にまかせました。すると彼女は空欄の「還(      )元台幣現給乙方」の中に5000と書き込みました。少し多い気もしましたが、彼女が自分で決めたことですし、来年度の新学年の9月からの前期の學費を払う前に返したいという彼女の言葉を信じることにしました。4月、5月、6月、7月、最後が8月15號という加菲の提案をそのまま、受け入れました。彼女がホールの椅子に座って、膝の上で書いていた租債書は、たたでさえ、ノートの切れ端のような紙であったこともあり、その上に涙が落ちて、ボールペンのインクが何カ所か滲んでしまいました。

最後に彼女はその租債書と學生證と身分證のコピーを渡し、小さな声で「謝謝」と2度ほど繰り返しました。
そして、私は最後に加菲に話をしました。

「我相信你。如果你有誠心的話、你努力還錢。社會的信用是重要。更你是很年輕、所以你學習遵守約定。我等等、可以。不還錢也可以。目前你的家人都没有信用。我覺得你是不一様。我想教信用才是最重要在白天的社會。再一次我説跟你。我相信加菲」

(僕は信じている。もし加菲が誠実な心をもっているならば、きっとお金を返すのに努力を重ねるはずだ。社会的な信用は大切だ。加菲はまだとても若いから、約束を守るということを学ばなければいけないんだよ。僕はお金を返すのを待つこともできるし、返さなくてもいいと思っている。今、加菲の家族はすべて信用がない。僕は加菲はちがうと思っている。僕は昼間の普通の社会では信用こそ最も重要であることを加菲に教えたいと思っているんだ。もう一度言うよ、僕は加菲を信じているから)

加菲はボタボタと涙を落とし、すくっと立つとエレベータの方に向かって歩き出しました。そして、振り向かず、手をあげてバイバイという手を振りました。彼女のその時の涙は不幸な家庭に生まれた自分の運命を呪った涙なのか、それともこれから先の自分の人生を考えてのものなのかはわかりませんでした。

時間はもう8時をまわっていました。私の手には少し彼女の涙で滲んだ粗雑な租債書がありました。
私はそれを折ってポケットに入れ、病院を後にしました。

今、私の手元にあるのは、そのコピーです。本物の租債書はありません。
この後、加菲はいろいろな紆余曲折を通しながらも彼女は約束を守ったからです。

最後に彼女に逢ったのはMRTの劍澤站。士林夜市に向かう多くの人混みの中でのことでした。

彼女が勤める酒店から遠く離れた亞東紀念醫院のこの日の夜から、私と加菲の人と人としての本当のかかわりが始まったのです。

劍澤で彼女に租債書を返すまで、加菲には多くの険しい道のりが実は待っていました。


 画像はある經紀公司の小姐への給料(薪資)の明細です。ほとんどの酒店に勤める子は經紀公司の經紀人が担当していて、酒店をやっている公司に派遣される形をとっています。ですから給料も酒店の公司からもらうのではなく、自分の契約している經紀公司からもらうのが通例です。

 私檯制の場合は1人の客人に実際についた節数だけが給料となります。毎日、何節ついたかが記録されていて、この公關の場合は1週間で合計326節でした。正職のため、1節150元ですから合計48900元となります。しかし、いろいろな扣錢(給料から引かれるお金)があって、この子の場合は遅刻が合計で116分、普通は1分50元ですが、ここの經紀公司も同じで合計5800元の扣錢となっています。この子の場合は遅刻だけの扣錢ですが、制服を替えた場合は制服代金やバンスの返金、途中で休憩したり、早退した場合も罰金があります。また、酒店で禁じられている行為をした場合(またブログで説明していきます)も罰金があって、活動扣錢となります。

 この子の場合は遅刻の罰金だけの扣錢ですし、10月16日は90節ですから大框が2回あったと思われます(最初の大框ですぐに解放され、また店に戻って大框される特殊なパターン)。大框は通常8時間48節ですから、1日で90節は普通はありえません。 週5日勤務の正職でも300節を越えるのは至難の業で、平均は150節~250節ぐらいです。

 1週間3天、1日6時間勤務のPTの場合は1節130元が相場ですから、1日30節平均として1週間で90節11700元で月だいたい45000元ぐらいです。さらに扣錢がかなりありますから、35000元~40000元ぐらいが平均的と思われます。

 これは見本の薪資明細(給料明細)で經紀公司がHPを見て勤めようかどうか迷っている子に「こんなに儲るんだ」という印象を与えるための紅牌(No.1グループ)の子のものです。月に10~15万元の薪資をもらえるような子は100人の公關がいたら10%いるかどうかぐらいです。

収據モザ