霧社の街を少し、芊芊とともに歩くことにしました。幸い車をとばして埔霧公路を短時間で上がってきたこともあってまだ、夕刻とは言え明るく、かつて日本人と原住民がともに歴史を刻んだこの街を芊芊とともにゆっくりと歩きたくなりました。しかし、意外だったのは、ここ霧社でも日本人に対する感情は著しく悪くはないように感じました。毎年10月27日に行われる「祈念抗日霧社事件」から「抗日」の文字もここ数年はずれており、「祈念霧社事件」になっているようです。かつての国民党による抗日教育時代とは明らかに霧社事件の評価やとらえ方が変わってきているのかもしれません。

 網路で拾った霧社の航空写真。位置関係がわかり、霧社が山の尾根の上にできた細長い街であることがよくわかります。クリックすると拡大します。
dg-taiwan-36

 日本統治時代の霧社の街。当時はガスや電気も初期はなく、日本人によってだんだん整備されました。
View_of_Musha

 現在の霧社の街。小さな街で山間の尾根の上にあるという感じです。清境農場の通過点にもなっているため、ちょっとした観光地にもなっていますが、史実を学びに来る人以外は多くの人は訪ねない所です。
img_400435_7461012_8

「霧社事件殉難殉職者之墓」の跡は埔里から霧社に入った所、清潔隊の建物のある丘陵にあります。私たちは寄りませんでしたが、現在は抗日教育時代に壊され、その跡だけしか残っていません。

 かつての霧社事件殉難殉職者之墓。霧社公学校での亡くなった日本人や霧社事件の戦闘の中で命を落とした日本人や味方蕃の原住民の方々の名前が刻まれていたとのことです。この場所は最初に多くの日本人が殺害された霧社公学校(現在は電力公司の建物になっています)を見下ろす丘の上に立てたと言われています。
20110925_01b

15-50pic1 (1)

 現在は清潔隊の建物の横に僅かに殉難殉職者之墓の台座に上がる階段が残っているようです。しかし、国民党による抗日教育時代が終わり、1990年代から始まった民主化の中で霧社事件の見直しも進み、現在は歴史的な事件の遺跡としての案内板も設置されている模様です。
20090412-026

 街の中心にある仁愛郷公所(日本の旧駐在所霧社分室の跡地)。この近くから国民党の抗日時代に防空壕を作っていたところ、多数の手足を針金で縛られた約30人の遺骨が発見されました。投降した蜂起賽德克族の遺体と推測されており、このことがきっかけで、霧社山胞抗日起義紀念碑が建てられました。
20090412-025

莫那魯道抗日紀念公園を出て私たちは最も清境農場に近い側の街外れにある、かつて日本人が建立した霧ヶ丘神社跡に向かいました。この入口には鳥居の痕跡があり石段が続いていますが、現在は徳龍宮という孔子廟になっています。わずかに当時の面影を残している石灯籠も黄色に所々塗装されています。さらに鳥居も修正が加えてあって、日本の鳥居とは形を変えています。抗日の足跡をやはりとても強く感じることができる場所でした。かつてこの神社の階段に日本人や味方蕃が殺害した抗日賽德克族の首をたくさん並べたと言われています。

 日本統治時代の霧ヶ丘神社。鳥居も2つあり、鳥居の正面には看板もありました。
shinjin_047

 徳龍宮の入口に建つ霧ヶ丘神社の名残りの鳥居。当時とは形が変えられており、看板もはずれています。 
20061125 105838_898ace65-c123-406a-9aa6-fd8f02d68fb7

 鳥居をくぐり、石段を登った所にある当時の霧ヶ丘神社本殿。石灯籠だけが今も現存しています。
3146

  徳龍宮に残るかつての神社の名残り・石灯籠
灯篭

m7

 現在の徳龍宮。神社の面影はもうまったくと言っていいほどありません。
f10c0963b9be5fc79d2253314486fb1d

ここは高台になっていて、霧社の街が山間の尾根上にあることがよくわかります。徳龍宮からは碧湖をよく見ることができます。私と芊芊はここから、すでに夕闇が迫った霧社の街を見下ろしました。

夕照に輝く碧湖は長い間、この霧社の街の様々な歴史を見続けてきたのでしょう。長かった私たちの旅もいよいよ終末を迎えました。日本人のアイデンティティ、台湾人のアイデンティティ、そして客家人や原住民のアイデンティティを考えさせられる旅でした。複雑なこの台湾という国はまだまだ簡単に理解することはできません。

日本人である私たちは台湾とどう対話していくのか、芊芊がその答えのヒントを少しくれたように思います。

20061125 110506_2988f9e3-d8e3-446a-8466-ee1ea4ec144e